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2015年10月19日 (月)

あのとき 1

 本日:10月19日を我が家の記憶の日に70年前のこの日一家は、朝鮮:釜山から博多港に引揚げて来ました。母:38、長兄:中1、次兄:小4、姉:小3、私::4歳7ヶ月、姉の背の弟:1歳5ヶ月の6人。終戦時の住いは(現韓国の)江景、この地を出た日は定かではありませんが、着の身着のまま、上下二段に仕切られた数両の貨車に乗り、途中原野で炊飯・野宿したこと。(釜山からの)引揚げ船(徳寿丸)乗船時の海面の見える桟橋と航行中の船尾の飛沫は画のように浮かびます。より鮮明な記憶は上陸時の進駐軍。その一人が水道を指し“顔を洗ってこい”の仕草、従うと真っ白なパンをもらって美味しかったこと。蒸しパンだったのか?後年、時々白いパンを見つけては求めますが未だに出会いません。最後の赤紙で招集された父:41歳は、家族とは別便。復員船(LST)で家族の前日に出発したものの旧博多駅前の旅館で合流したのは翌20日(兄の話)、一家7人は現:甘木市の父の既に亡き長兄宅に1週間寄留。母は近くの大字三奈木の農家の離れを買い求めて落着き、妹の誕生で一家は8人家族となりました。
151019kokura父は子沢山なことから食料配給事情の良い小倉炭坑に就職。昭和21年3月、荷車と汽車で小倉へ移動、それから一家上京の昭和40年迄の19年間、現北九州市小倉北区に居住しました。だから少年・青年期をおくったこの地が私の故郷です。
 当時、家から3キロくらいの地に米陸軍第4師団が駐留していました。小3のとき朝鮮戦争勃発、その夜の緊迫した町内の空気と遠くの機銃音は耳に残っています。国連軍としてこの師団が最初の韓国派遣ときまり黒人兵が脱走したのだと聞きました。
そのうち足立山の中腹に戦死した国連軍兵士を慰霊する巨大なメモリアルクロスが、朝鮮半島に向いあって建設されました。休戦まで、編隊のジェット戦闘機やLSTに積み込まれる戦車等を見かけたものです。左の写真は引用したもの。そのサイトは こちらをクリックすると新ウインドウで表示します機会があれば、市街を一望するこの地を訪れて下さい。子どもの頃の眺望とは一変しているようですが。

 炭坑に落盤事故はつきものです。その都度、坑口にたくさんの人々が集まり、ヘッドライト付ヘルメットを被って炭塵で黒く汚れた坑夫たちが負傷者等を担架で助け出してくるのを迎えます。なかにはお線香のたつ炭住(坑夫の長屋)もでる。そうした風景が日常でした。国のエネルギー政策が石炭から石油にかわり始めた頃、小倉炭坑も荒れてきてストライキ、それに対抗するロックアウト、激しい怒号渦巻く洗濯デモ、怖いもの見たさに塀の上からみたものの暗い印象になっています。高校の頃が炭坑争議の頂点で、もはや一炭坑の労使対決を超え、日経連と当時最強の組合といわれた炭労の戦いになり、三井三池炭坑を巡っての壮烈な有り様は毎日の新聞一面を賑わせました。(つづく)<2015.10.19記>

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