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2016年12月30日 (金)

2016年 申 : しめくくり

 明日は、もう大晦日。一年って早い。誕生したその一年は、今や10分の1程度に感じる。成長・青年期は気にしたことはない。還暦を過ぎて、人生をふり返りはじめて、一年のトキ(時間)を気にとめるようになった

 子どもの頃他人(ひと)様に迷惑をかけるな。他人様のお役に立つ人間になれ。手に職をつけよ、と頻繁に言われて、小言に聞こえた・・それも、学生からは教え、今は思い出の母の言葉。教えは、途中一つ加わる。決して保証人になるな!実印を押すときは慎重に。これは、我が家訓で、子どもたちに伝えている。

 1945年:終戦の10月、身重の母は、兄(中1)・兄(小4)・姉(小3)・私(4歳半)(小3姉の背の)(1歳4ヶ月)の5人を守り江景(現韓国)から引揚げてきた。最後の招集で兵になった父はいない。ほかの生活も浮かぶその地から(上下二段区分の)貨車に詰められた人々と一緒に(釜山)港に運ばれた。途中の原ッパでは停車し炊飯した。引揚船(後年、徳寿丸と知る)乗船時の海面の見える狭く揺れ動く桟橋や航行の飛沫、上陸した博多港で初めてみる外国人進駐軍)。寄留先の朝倉郡甘木で末妹誕生。納屋や川も次々思い出される。

 1965年(5市合併→100万都市:北九州市誕生)の上京迄、無法松の一生で知られる小倉に住んだ。松本清張の出身地、今は城内に記念館がある。高杉晋作の長州軍と戦った主力の小笠原藩(譜代)は、この小倉を居城とした。城下町であり大手の工場があり、なんと炭鉱もあった。当時の石炭は重要なエネルギー源。戦時中から食糧事情は良かったらしい。一家8人家族移住の決め手。ほどなくエネルギー政策は変わり石炭産業は斜陽になる。父は母の従兄の会社に移る。母はどう才覚したものか近くの古い家を購入。表を改造し裏手に煉瓦とコンクリの耐火倉庫を造って質屋をはじめた。小3のとき朝鮮戦争(1950年)勃発。近くの城野キャンプの米軍が最初の国連軍として韓国へ。出動直前黒人兵の脱走騒ぎあり。小倉港は物資搬送の基地になる。
落盤事故に争議も頻発しはじめたそんなある日、父は社長になった。事務所に行き社名看板をみた。社員の運転するジープで耶馬溪にもいった。だがその直後、社員は消え、事務所はもぬけの空。詐欺グループによる計画的な犯行。ドッキリではない事実。怖い取り立てがやってきたのは小6の秋だ。負債総額(今に換算すると)1.8億あまり。一挙に窮乏生活になる。絶望し思い詰めた母を激励したのは大学生の長兄、即休学し駐留軍キャンプで働きはじめる。次兄は大学進学を断念し公務員に。姉はアルバイト、自分は新聞配達。保証人どころが、担がれた社長であっても一切の責任は父になる。そんな家族の大事件の思春期に世の中の大人には、悪人のいることを知る。悪徳弁護士もいる。今なおその名は大嫌い。

 退職届を提出しオンライン情報検索システム開発中の10ヶ月間に、6社から誘いを受けた。そこから、あえて大企業ではなく、生保のそれも、できたての子会社に決めた。その理由。新規事業で任せて貰え、制約が少なそう。資金の心配はまったくない

 ふり返りすぎた。いったん止め。このところ牛久の学びやコミュニティ・スクールに関わり、知人が増えた。これからは自分を知ってもらう必要もあろう。まずは、地方での暮らしから知ってもらうことに。4_50_3業務経歴は、ホームページの奥深くにあるが、少年・青年期のことは、どこにも記していない。家族にさえ話していない。されば、この機に孫たちのために残しておくことにする。子どものころから、卒業・上京までの小倉での生活そこで身近に起きた争議・事件、60年安保、三井三池大争議(炭労と日経連の戦い)を見聞きし、脳裏に刻んだ。労使双方のトップの人物の真の姿も、父を通じて知った。我が精神の背骨はその地でその環境でつくられた。いまは出来ることをできるだけに絞ったふるまいだが、さて今後どうなる。少年の頃の写真は卒業式アルバムのほかは、この(小4)一枚しかない。兄姉弟も同様。写真は長兄(高校時代)の友人が、見下ろして覗くタイプのカメラ:リコーフレックスで撮った。セピア色からスキャン、修正なし。

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