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2017年6月10日 (土)

教える/学びあう

 「教える」は教師が前面にでる授業。講義型ともいい先生と生徒が向き合う一斉授業。先生のもてる力量で授業を思うがままに運ぶ。「学びあう」は子どもたち中心の授業。今や文科省もアクティブ・ラーニングと称して推進する21世紀型の授業法佐藤学先生の「学びの共同体」の実践を市内全校ですすめている牛久市の授業現場をこの一年、つぶさに見てきた。まだまだこの学びあう授業の理解の入口に過ぎないが、ここらで感ずるままに述べておく。
 一斉授業は、明治の小学校令来長く続き、時代の変化に児童生徒数の変化に、高度経済成長期にも、社会に対応してきた。しかし(浅い視点だが)ピーク時270万人に及んだ団塊の世代の子どもたち(第二ベビーブーム)世代の頃からか?荒れる学校や家庭崩壊がおきてきた。一斉授業では、増えた児童生徒数もあり、学ぶことに不得手な子どもに対応しきれず、子どものエネルギーはあらぬ方向に吹き出た。学校は、一部の荒れる力には力でということか?体力のある生徒指導者によって対処してきたが沈静化効果は薄かった。世の中全体が貧しかった親の時代(ビートルズ世代)にはこんなことはなく、むしろ解き放たれたように音楽を初め文化に新しさが生まれた。物が満ちあふれる豊かな時代に変わって、家庭でとされてきた躾けも不十分なままの子に、学校で強めの指導をすると学校は攻められようになり混迷する。
 一斉授業は、教師の知識や(算数・数学等の)解き方の伝授にある子どもの記憶力と覚る力次第で学力の差が出る。しかし、これらに得手な子もいれば不得手な子は今もいる。数十人もいる教室では理解できない、学習に関心を持てず面白くない。逃亡する子どもだって。そうした事態に有効な手を打てなかったのは現実。補習という埋め合わせもあるが、所詮部分的な手当てに過ぎず本質的対応でない。結局、荒れは治らず。
 0609こうした背景の中で工夫されたのが学び合う授業なんだろう。この考え方に賛同者が生まれ、実践を通して考察を深め、明解な方法の提示をみた。これを正しく理解し実践した学校に著しい改善をみた。
この授業による子どもを持つ保護者達に、大きな信頼をえた数人の先生方に話を聞いたことがある。異口同音の返答。それは「教えたいことはたくさんあるが、自分一人では全員に教えきれない。そこを打開したいので学びあいに関心を持った」と。学びあう授業は、机をコの字にするという外見的に分かり易いことと、一見、先生に教えているのか?と見えるため批判的な声があがった。なかにはこの学び合う授業によほど未熟な先生の現場を見たのだろう?リスペクトを得る立場にある元校長先生の批判記事には驚いた。その記事今もネットに。
 学びあう授業(5分~10分程度の)視察レベルでは全く、フルに一時間(校時)を見たとしても疑問を抱いたままにおわる学びあいの提案授業と、その直後につづく先生方全員参加のうえ、スーパーバイザー(専門家)もいる校内研修を3回みて、やっとその概要理解の糸口を得た。いまも校内研修を観察するが、その都度得られることがある。
 決して先生は怠けていない。授業は当然準備し、時間をコントロールし、子どもたちの学びあう状況を観察し、分からない子には学びに参加できように寄り添っていく。広く神経を働かせている。あくまでも教えるのではなく子ども自身の学ぶ力を引き出すこの教え方は従来とは真逆だ。それだけに力量と実績のあるベテラン先生にとっては苦痛だろう。でも貴方のこれまでの方法で”等しく学ばせることはできましたか?”と問われると困るだろう。牛久市の教育のスローガンは「一人一人に高い学びを保障する。居場所をつくる」で、先生方共通の認識。公教育たる小・中学校、如何にしてその目標を達成するか。月1回の提案授業と校内研修、この時間は必須と確信する。佐藤先生の言う授業の公開と同僚性の醸成はここから生まれる。
授業中の子どもの学びの状態観察には個人差がある。30人授業を一人の先生では無理もない。校内研修のグループ討議において先生方相互の視点での情報交換は、学校全体の学力向上に結びついていく。子ども4人グループで、目につくほどに学習に参加できていない子どもは、多くが気づくが、その姿からは目につきにくい子どももいる。子どもの学ぶ力を引き出す方法も、経験の差はでる。だから「○○さんはこんな時、どうしていたよ」という情報は、その子のその後のより良い学びに必要で貴重な情報。

 学校は知識を教え込むから、問題や課題を解決する力の育成に変化しはじめた。社会には教科書はない。そこにあるのは課題や問題、それをどのような手立てで解決するかが仕事そのもの。そのときに、必要な基本となる知識を得る方法、他人と協働する進め方を身につけていることは重要なこと。知識満載でなく、解決の糸口をみつける知恵と、巧く運ぶ実践力が問われる。かつての(情報産業)会社の新人教育と同じ。学びあう授業でのペアであったり、4人グループであったりのなかでの子ども同士が考えを交わしつつ問題にあたるその体験に、後々活きるヒントがあり、コミュニケーション能力が身につく。授業最後のジャンプ課題の良否がまた一段と考える力を刺激する。そうした時間を四六時中、学校にいる間中、友とおくっているのが今の牛久の学校。知識伝授の時代から知恵の出し合い・助け合いによる時代への転換に備えている。大人は既に社会で実体験しているこの手法をいまや学校で身につけはじめていると言うこと。ディープラーニングによるAI(人工知能)の発展は、今ある職種の何割かをなくすという予測がある。なればこそ、問題・課題を協働して解決する授業法は21世紀型に相応しい。
 卒業したての先生はともかく、ベテラン先生にはこの変化、苦痛だろうが、よく見ると、先生方の子ども大好きは不変で学力をつける喜びを知っておられる。先生の目標に向かったときの能力(インテリジェンス)の高さと、その発揮する姿は気持がよい。先生!お願いしますよ。私たちの子どもを。学び合いは子どもだけでなく、先生、さらにこれからは地域の人々も身につけ協働する時代なのか。

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