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2017年7月26日 (水)

あのとき 2

 7月18日、生涯医師を貫かれ、多くの人々の知る日野原重明氏が105歳で亡くなられた。予防医療等卓越した多くの偉業は後輩に引き継がれよう。実は我が父、あと3ヶ月で106歳という日に他界。足は衰えたものの昔風の教養豊かで、前日まで頭脳明晰。直前迄かつての部下の訪問を見るほどに慕われていた。つい105歳で思い出す。日野原先生、1941年聖路加国際病院の内科医となって東京に進出したという。その年、わたしはこの世に生を受けている(どうでも良いか・・)

 このたびの九州北部豪雨、福岡県朝倉市の被災状況を見るに言葉もない。大分県日田市も同様。5年前(平成24年)もそうだった。ボランティアに駆けつけたいところだがこの歳では無理、早々に義援金に応じたのみ。実は”朝倉”なるこの地には縁がある。1945(昭和20)年:終戦とともに、朝鮮半島から一家7人は博多港に引揚げてきた。父は最後の応召で軍として一日早く、身重の母は、両手に荷を持つ中1と小4の兄、1歳半の弟を背負う小3の姉を励まし4歳半のわたしを連れてのこと。その10月19日。次兄の話では旧博多駅(呉服町)近くの旅館で父と合流一泊し、翌日一家7人は父の実家、三奈木に一時身を寄せた。当時の地名:福岡県朝倉郡三奈木村。長兄は旧制の朝倉中学、次兄と姉は、金川(かながわ)小学校に編入。父41歳、母38歳。
この地は住みづらかったらしい。1週間で近くの農家の離れを購入し移転。着の身着のまま、鍋も釜も茶碗もない戦後生活のはじまりだったとか。3月の半ば妹誕生。
父は、中央(東京)でバンカーへ”との誘いを辞退して、(北九州)小倉の炭鉱に職を得る。親子8人の食糧確保を絶対優先としたらしい。落ち着き先は3世帯ずつの2階建て長屋が前後に並ぶ後列の中央だった。引き揚げ前の父は殖産銀行員。30代で支店長に登用され、頭取から将来を嘱望されていたというからエリート街道にある。父の人生、人々同様終戦で流転する。食糧確保、生活優先のこの決断、よほどの苦衷でもあったのだろう。
 少し脱線する。NHK朝ドラの「ひよっこ」。奥茨城から上京就職した主人公(谷田部)みね子のものがたり。この昭和40年は、東京オリンピックの翌年で景気の谷間であり不況だった。父はこの昭和40に定年を迎え、役員昇格をあっさり辞退して退職した。既にこのとき、長兄と姉は関東、次兄は福岡、弟は在学で札幌にそれぞれ独立していて、残るは両親と、ともに卒業の妹とわたしの4人。家財一切を処分し4月上京。19年間の小倉生活を終わりにした。東京の住まいは、長兄の申し込みで確保できた足立区の新設公団住宅だった。日比谷線乗り入れの東武線草加駅から徒歩20分もかかる。小倉に比べると格段に狭い3Kではあったが都会の雰囲気と文化生活の匂いがした。卒業の二人は小倉での就職先を辞退している。妹は進学と働きを両立させる道に。わたしの就職は不況で大変。結局、長兄(農林省技官:公務員上級職採用)の世話で昭和40年7月1日、半官半民の職場を受験。大学時代、コンピューターを学んでいなかったらもっと流浪しただろう。社会人第一歩は縁故採用だったに違いない。

 職場は世界中から先端の科学技術情報を集めて、国内にその情報を普及する役割をもった特殊法人だった。産業界にとって高度な先端情報は絶対に必要。ところが、やむを得ないことだが収集した段階では既に雑誌やニュースリリースの出版物や印刷物である。これを翻訳し3~400文字の紹介文(抄録)にまとめで出版へとすすめる。抄録原稿が出来ても、日本語タイプライターで一情報を一枚のカードにし、それを並べて編集・加工し、印刷のための版下をつくる。結局、
収集から出版まで半年もかかっていた。これではいけない、もっと早く産業界に提供せよとの要請を受けて、この出版編集プロセスをコンピューターで実現することになった。ところが当時のコンピューターは英カナ文字しか印刷できない。不可能なのである。字種の多い漢字の混じる日本語文なんてとても無理と言う時代。就職3年目、当時の大型コンピューターFACOM230-50の導入がきまり電子計算機室ができた。そこへ異動。漢字混じりの日本語をアウトプット(出力)する特殊な装置は新規開発となる。日本語タイプライター打ちしたカードから、漢字入力装置による紙テープ作成に変わる。この紙テープをコンピューターにインプット(入力)し、原稿の校正作業から、完成原稿を出版種類別に編集・加工し版下を作るプロセスをコンピューター処理することになった。その版下の作成は数本のプログラムからなるシステムになる。編成されたプロジェクトチームはメーカーの技術者と大学の経験者と先輩。システムは完成したものの夕方から翌朝までの時間でも、版下は出来ない。大変なことになった。そのころアメリカのコンピューター・メーカーは日本への売り込みのため日本語処理の技術開発に取組みはじめた。そこへある商社がからみメンバーの数人が引抜かれた。システムは未完成のままメンバーに欠員。いよいよ大変な事態となって、給与計算等のビジネスシステムの開発に携わっていた私は急遽そのチームに編入。常務理事が大学時代の経験に気づいたらしい。ここからが開運。システムを分析し問題箇所を特定した。最大の問題プログラム2本を合体して1本にし、編集・版下作成プログラムをつくる。しかも言語をCOBOLからアセンブラーにかえ作り上げた。1結果、大幅な処理時間短縮となり実用化に踏み切れることに(こうした経緯を知るものは今はいなかろう)昭和44年、NHK夕方6時のニュースで画期的技術による夢の実現として放映された。記者会見も一日に3回も開かれた。45年の大阪万博のときの研究集会で、この成果を発表。それからというもの、出版物がコンピューターで処理できるとあって、時の話題になり見学者がわんさとやってきた。プログラミング担当者として、上司の指名と指導のもと、求められるがまま専門誌や商業誌にその手法を寄稿。あちらこちらの講師に引っ張り出され、共著本まで出版した。
 たまたまコンピューター技術を先行習得していたこと。先任者が未完のままいなくなったこと。しかも英字・カナ文字しかアウトプット(印刷)出来ない時代に漢字仮名混じり文の編集技術を持っていること、で注目される。2さらに日本文で電子化された
科学技術文献情報は蓄積されていくから、そこからオンライン検索技術の開発へと道をひらくことになる。日本中で、あの職場でしか実現できなかったこと。あらためて感謝している。こうして、私は漢字処理、情報検索のプロフェッショナルの道を切り開くことに。退職を申し出てスカウトにやってきた人曰く。あなたは世界初の漢字処理技術者だと。笑える。日本語だから当然そうなるだけ。その後、日本語処理技術はは富士通を中心に急速に発展・拡大し一般化した
 今、誰もがあたり前に使う
ブラウザーでの情報検索。そのパイロットシステムを世に出したのは、わたしと3歳下の今は亡き同僚(上図)である。その後のことは、そのうち書き留める。(図は論文の一部例)

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