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2017年8月28日 (月)

そのときは・・、突然

 そのは・、突然やってきた。13年前、義姉を亡くしてからはずっと一人暮らしの次兄。福岡在、5歳ちがいでもあり、その無事を確認する意味をこめてスカイプするようになっていた。毎週交わすたわいのない会話は、いつのまにか、日常近くに住む兄くらいの感覚。われ等6人兄弟姉妹の上から2番目。昭和20年の引揚げ時は小学4年生。不明な点の多くを教えてもらったのはこの兄。
 昭和28年。父が欺され大きな借財を背負い一家どん底のとき高校卒業を迎える。大学進学をあきらめ、働きながら学べる公務員の道に進み福岡に下宿した。
昭和40年両親の上京からは兄弟ではただ一人の九州住まいだった。政府の仕事で日本各地と、東南アジアに駐在する長兄にかわって家のまとめ役にいた。いつのまにか日中友好活動に傾倒し、多くの留学生の身元保証人を引き受けていたらしい。告別式の電報披露に”元中国福岡総領事館領事”が複数おられ驚く。離れていたせいもあるのか?両親と兄弟妹への思いの深さは、にじみ出るくらいだった。その無償の愛は国境をも超えていたのだろう。母の失明の危機に中国での治療を手配し付添ったのもこの兄。中国でも偲ぶ会をしたいから遺影が欲しいと早々の連絡があったと聞く。兄妹でも知らぬことがある。

 その兄、
7月26日水曜)ちょっと変、ムカムカするということで成人病センターにて27日(木曜)検査。「胃がんが見つかった。今からデータをもってかかりつけの病院へ行きます」とLINEに。そこで、より大きな病院での検査をすすめられて、月一回通う福岡でも大きな病院に31日(月曜)検査入院したそして8月19日(金曜)午後8時2分に逝く。なんというこのはやさ。その顛末を整理してみた。EXCELStart8ページにわたるLINEの記事。こまめに逐次着信していたからこそ経過を追える。はじめと終わりを少し披露(左右表)1回目の抗ガン剤治療日(14日)まで大きな変化はない
 20日(日曜)通夜、21日(月曜告別式。22日(火曜)、病院に医師を訪ねる。この急転する事態を呑み込めないでいたからである。15時から、40分間説明を受け理解した。そういうことだったのか。検査前日のスカイプでは「検査することになった。下着を購入し郵便を局留手配し、庭に除草剤を撒いておいた」という。いつになく念入りなこと。それでも十二分にいつもの兄だった。ちょっと行ってくるという感じだった。End医師に聞いて分かったことがある。病巣の位置による十二指腸ガンの危険度。一般人の大半は知らないだろう。この際、一人息子の了解を得て記事にすることにした。兄の死を無駄にしたくない。

 一人息子は、東京で働く一女(4歳半)の父親。彼は
5日(土曜)一家三人で見舞い、19日は単独で二回目の見舞いにいった。退院を手伝うくらいの気持ち。この日、病棟では前夜から慌ただしかったらしい。前日の18日18時39分まで頻繁にきていたLINEがすっかり途絶えていたから18日は長めのが4通。変だとは思っていた。それでも息子が行くのだから、報告はあるだろうと”二中&おくのウインドベルズ”の第2回サマーコンサートに出かけた。帰宅後の18時に甥(息子)からの電話。「月曜日に新たな治療方針を立てることになった。”伯父さんに立ち合ってほしい”と父が言っている」と。生憎、月曜日午後に奥野キャンパスの第三回学校運営協議会が予定されていて、準備していたので「月曜日午後は大切な会議がある。翌日からそちらに行ける。連絡せよ」と返事した。
それから2時間後20時13分に再び甥からの電話。「父は20時2分に亡くなった」と小さく弱弱しい声。えぇ!と絶句。しばらく声もない。再度促し確かめ・・次兄の死を認知する。11日11時40分には、吹き抜けのある電話のできるところに来たと電話もしてきた。翌12日に誕生日を迎えたばかりの81歳。多い日は一日に12通、普通でも7通LINEで”今”を報せてくるほどに冷静で自分を把握していた兄が・・。13日のみんなの青山墓地(先祖)へのお迎え、一段の供花と快復の願い、なんとしたことか。
Photo兄とは常々、終活のことなど話していた。病人になったら延命治療はしない、葬儀は家族葬、断捨離のことなど。当面の通夜も告別式も事務的に運ぶのみ。こうして記録している今も、その死を受け入れられないでいる。スカイプでコールすればパソコン画面にいつもの顔が姿が現れる気がする。

 十二指腸ガン・ステージ4と分かったのは8月4日(金曜)。このガン、聞いたこともない。医師の説明で膵臓と肝臓にリンパも係わって転移している。”この位置だと・・”と画像を使っての説明を受けた。病巣が大きく、手術となると大手術になること、年齢からみて危険でもあり、回復するにしても2~3カ月はかかるだろう。放射線治療もできない。転移があるからその先は分からないとも。このこと、兄には息子同席で話していたという。家族には別に、より深刻に。本人発弟妹に回送するLINEには、そこまでの記述はないが、よくよく見ると推測できる。なんと我ら、回復期待に満ちた見方しかできていなかったことか。この情報を深く読みさえすれば見舞いに行けたものを・・。回復するだろう/してもらいたいの一心で、出血が止まらないというのが一番の気がかりと、出血箇所は分かったか?と何度もLINEした。医師の説明で改めて知った。ガンは患部全体から出血する18日(金曜夜から大量の吐血があり、輸血をしつつ19日(土曜)緊急(カテーテル)手術。患部の血管を塞ぐ措置。結果的には最善を尽くしたがここに至る。
 
十二指腸ガンの恐ろしさを知った。膵臓に近い箇所というのが最悪。普段の生活では本人には、まったく自覚する症状はなく、検査入院してからが早かったわずか20日。最後の一日、18日20時以降にまさに急転したらしい。
医療の進歩で治りやすくなったガンの治る/治らないの幅を仮に1メートルとイメージしたら、十二指腸ガンのステージ4は10センチに満たないのではないか?と受けとめた。症例が少ない。それだけに確立した治療法はない、大腸がんに準ずる治療で臨むとなり、それを受け入れた。抗がん剤治療はガンを小さくするのが目的だったと。その第1回目が14日
(月曜)開始。順調なら木曜退院。それが土曜退院に変わり、月曜退院に伸びた。でも、我等、死に至る深刻な事態とは受け止めていなかった。

 兄の意思に沿って家族葬(家族と兄妹にした。兄は病床から地元福岡のきわめて親しい友人数人には連絡したらしく、数人が見舞いに訪れた。息子同様に可愛がっていたM君夫妻には、今までではありえない助言もしていた。
通夜の席に兄の死を悼む少ない参列者を残念がる大親友
(埼玉に住む特別な方故連絡した)がおられ、偲ぶ会/お別れの会を12月に福岡でしたいから、関係する人々を確認したいとの申し出を受けた。そうしようと安請け合いしたが、22日からの部屋の整理で、あれほど残る者(遺族)に迷惑をかけないようにしようと互いに誓っていて、実際にも始めたともいっていたが、現実は違った。本の山、また山である。資料性の高いものもあると聞く。それよりなにより、貴重な品さえ見つからない。PCに名簿はあり、筆まめのV27が入っていたが、ハガキ印刷フォーマットに利用していただけのようで未整理である。翌23日になって、関係者情報の提供は困難と、その親友に電話する。そしてわが身を振り返り、名簿はあるが分類は最新になっていないと気づく。これでは限られた名簿の利用はできない。若い甥夫婦の”互いにわかるようにしておこう”という呟きも教訓に。考えてみれば、多くの方もそうだろう。その死が突然来るなんて誰も予想していない、できない。病気になっても回復するだろうと、本人も周囲も期待するばかり。これでは十分にその時に備えられない。

 十二指腸ガン・ステージ4はめちゃくちゃ怖い。日常からその時に備える行動はとっておかなくてはならない。しかし、よほど強い意志でもない限り終活はまっとうできまい。
 悲しみの中にもほんの少し、オアシスはある。それは普段こんなに長く、顔を合わせることのない甥っ子一家や妹から、知らない話をいくつも聞けたこと。法事はそういう意味もありか。なかでも幼稚園:年中組の女児には潤いをもらった。兄は、そうした機会を与えて、満足と笑っているのかもしれない。「誠にもうしわけない。F
(家内)子さんによろしく。」と話の終わりにつけ加えるのが口癖だった兄、今はコールすれども無返答。合掌。

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 補足) このたびの「家族葬」は、父の生前からの意向で、次兄がまとめ役となり、兄弟間で話し合い”家のルール”としたもの。父は常々”社会の第一線で働く者の活動をを制約するな”と言っていました。現役を引いているものとして理解できました。遠地に勤務する者、重要な仕事にある者もいます。彼らには悼んでもらうだけで十分とも。2010年2月、105歳で他界した父のときからこれを堅く守り、長兄そして今回の次兄もその意思に沿いました。もちろん、これからの私達も同様です。
 生前、親しく交遊して下さった方々には、誠に申し訳のないことではありますが、どうかどうかご理解を賜りたい。よろしくお許しください。
<2017.9.1追記 故人 弟 署名>

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