カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2017年4月23日 (日)

苗うえて我が家に春

 「穀雨」、20日(金曜)は、この日だった。「こくう」と読む。初めて耳にした。朝の依田さんの天気予報でのこと。穀物を育てる雨の意なんだそうで、二十四節気のひとつ、この次は、もう「立夏」。今年(2017)は5月5日のこどもの日。市役所の横の広場を舞う群れなす鯉が浮かぶ。この二十四節気は、毎年国立天文台から公表されているとか。知らなかった。
 寒さの残る3月の初め今年は何を何処に植えようかと二人だけの思案になった。昨年の隣地の5家共同管理畑での少しばかりの成功が、そうした気持の変化を生んだ。種をまく、苗を植付け、その生長を見守る。剪定、雑草つみ、物なりをみんなで分け合って、喜びも分かつ。晩秋は畑の側でのミニ収穫祭。子どもの頃のご近所つき合いの再現だった。
そんなわけで、今年は植え付ける場所は、大幅変更。庭のベランダ側、いつもはミニトマトやキュウリ、ピーマン、シシトウのところには、スナップエンドウの種を蒔き(3/2)、そしてパクチー(4/15)ここ数日の温かさで、にわかにエンドウはきみどりの葉を伸ばし支え棒の出番になった。毎朝、雨戸を引くたびに見ている。あっ!そうだった。共同作業でジャガイモを三種類植えつけた(3/24)。キタアカリ、男爵、メイクイーン。マルチシートをはってのこと。
04231_2 このところホームセンターを巡っていた。一寸した不足の農具、肥料の調達に苗の売り場を探る。荒川沖のジョイフル本田(4/15)、ひたち野うしくのホーマック(昨日4/22)といった具合。例年は連休だったが、早い出だしになった。楽しみは行動を変え、生活に潤いも。なんと、昨日(22日)は、ホーマックに数種の苗、多数出現。まだお客も少ないから求めやすい。早速、ミニトマト4種一株ずつ、キュウリ2種、ナス5株、シシトウ一株、ピーマン一株を購入して午後、家内が植え付けた。植付けから収穫担当は家内、小生は土づくり、畝づくり、棚を作ったりする、完全分業体制。何故か?整えるのが好きな小生は大切な芽まで摘んでしまう、とんでもない失敗をやらかす。それも毎回、だから信頼なしで叱られるそもそも不向き04232お代官様にお許しを乞うのは厭だから止めにした。まだ、植付け場所にゆとりがあると言ったら、そこは予定があるのだと。ホーレンソウ、オクラ、モロヘイヤ等々。現在、ネギはあちらこちらに元気に目立っている。取り残したキャベツは花を咲かせている。タマネギニンニクも、諸々生長している。決めては陽当り。土に温もりがある。野菜も人も。適材適所。マルチシートを敷いたのは、昨年の他家の経験をもとにやってみた。覆いをかぶせるところまでは、面倒は避けるタイプの小生には無理。でもやっている家もある。刺激されるなぁ~。そのかわり腐葉土を作る場所の整備はやっている。できあがった腐葉土を畑にまく。042334_3結構きつい労働だが体調を見ながらで、あっさり打ち切る。今年は何でも屋さんでもある彼が、畑の一角にハウスを造り始めた。こりゃ一体何が出来るのか。
ついでに、久しぶりのご対面、キャベツの花と葱坊主。別に珍しくもないのかな。キャベツの花の後方のオレンジ色は、植え付けた苗の囲いだがまるで花のよう。





2017年4月 2日 (日)

28年度離任式に思う

 ♪あかるい朝を 元気にそぶ~♪~、この日、ふと脳裏に流れて目が覚めた.。奥野小学校の校歌(つづきはこちらから歌詞に間違い、本当は「~元気にはこぶ」!。記憶の中の小学校唱歌にもこんなことは多々あり。年度末の最終日:31日は通常の新聞大で8面におよぶ教職員の異動が折り込まれる。何時の頃からか、これを見るようになった。一面は顔写真付き。2面以降茨城県教育委員会レベルから・・校長、教頭の順にあり、4つの地方事務所に身近な先生の異動をみる。知人名と市内13校名をたよりに探すが、いかんせん最早あの文字サイズで詰めこまれていては見落としも。
Photo_2 朝ドラ後のメールチャックでなんとこの異動が今年は全校そろってかっぱメールで着信。これには離任式時刻の案内もあり出かけた。奥野小、今年は4名。県北から赴任されていた教頭先生(ルールらしい?戻られる)、前任校来の旧知の先生は6年、子どもに人気、親も信頼する先生も同じ6年での離任。離任式の一般席には卒業生もひとりいた。新聞で知って飛んできたという。二中に廻った。ちょうど式が終わり生徒たちに見送られてきたところで言葉を交わした。校長、教頭先生を含む10名。この一年、いくつもの授業や校内研修会に参加した。ときには公開授業後に先輩の先生から温かいアドバイスを得ていた先生を見聞きしただけに感慨も一塩。いつもそうだが離任する先生方皆さんへは心のうちでエールを贈る。新しいステージで、さらなる経験を積んで、教育の質を高めていただきたいと願う。Photo_3

 帰宅し暫くすると、二中の校長先生と教頭先生とが「離任のご挨拶」持参しての来宅。午後には奥野小も同様に。二中はお二方とも離任する。校長は長くても3年がきまり?。櫻井校長はそれにあたる。奥野小の教務主任をされていたこともあるからいわば旧知で、お話しする機会は多々あった。”おくのキャンパス”と命名される以前の”奥野学園構想”の段階から尽力された。なかでも着任早々、生徒たちの現状をみて、さまざまな改善に当たられた。とりわけ印象に残るのは、中学校と小学校教員間の交流をはじめられたこと。この地区はそれぞれ一校。子どもたちはの多くは9カ年をともにする。その教育の質の向上には子どもの情報の共有から相互交流に踏み込まれた。当たり前と思われるがちだが、実際には小中学校間の交流はみない。企業で言えば支店間とみればわかろう。幹部はともかく一般社員の交流はない。
 近年、市内では小中一貫教育と言っている。中学には複数小学校から集まる。しかも大人数ともなれば、おくのキャンパスのような子どもの情報の共有は、そう簡単ではあるまい。それだけにそれらの学校の今後に注目する。

 1日(土曜)午後、前日離任し本来の任地、水戸の小学校に行かれた教頭先生が新任地の名刺を持って来宅。こんなこと初めて。先生は校長先生の送別のことばにもあったが、奥野小まで片道1時間半近くかけての自動車通勤だった。その距離、一年になんと4万キロ。地球の赤道付近の一周ときけば仰天する。2年だったから2周、8万キロにおよぶ。これではさぞご家族もご心配だったろう。(参考:地球の周囲は、赤道付近は 40075.17㎞、子午線では40007.88㎞とか)
先生は、情報技術に明るかった。フイールドサービスの情報機器リテラシーには、これまでお会いした誰よりご存知でサポート上はパートナーだった。奥野小は英語を特長の一つに採り上げはじめた頃。オーストラリアの学校とのスカイプによる交流を実現。イングリッシュルームでは贈られたタブレットの活用環境をスピーディーに整備。今年10月には、彼の国の生徒たちはホームスティでやってくる。それだけに出来ればもう一年いて欲しかったのだが・・、人事異動ばかりはどうにもならない。いまにしておもえば、自動車での一時間半の通勤は大変だったろう。今後はプライベートで先生の活躍を期待したい。
 

2017年3月 1日 (水)

スマホデビュー苦戦

 5ヶ月迷ったスマホに昨日:28日切替えた。そもそもは5歳上の兄が携帯に電話してきて、滅多にない長電話になったこと。何故かと尋ねるとスマホに切替え、テストしているのだという。かけ放題契約。80歳という年齢からして、操作を憶える最後の機会と捉えたのだという。そうだろう。同感。その歳では凄いこと。いまや世の中はスマホ生活で進むのは確実。そういう時勢を感じる。”私達は最初のスマホ世代”だったか?洒落たCMも流れている。残るCMになろう。実は、これまでスマホを敬遠していた。あの画面では文字が小さすぎてよく見えない。だが中学校に導入されているツーインワン(画面とキーボートの分離使用可能)タイプのパソコンは、2010年導入以来リプレース遅れの目立つ小学校にも近いうちに導入され、デスクトップPCにとって換わるだろう。そのときに、子どもたちに初期の操作さえ指導できないのでは・・、これまで続けてきた活動柄、なんとも我が身が情けない。だからそのときはスマホとタブレットは、同時に購入すると決めてショップを覗いていた。現在の通信料金、ガラケー(FOMA)とやや見下され感の携帯で、メール中心、ときどき電話ていどで夫婦で5千円弱。それがスマホに切替えると自分だけで7千円をこえる。これはコストアップも過ぎる。でも、このところ格安スマホのCMが多く流れていて興味を引き、動揺した。詳しく聞く気になってケーズデンキHU店のドコモコーナー訪問し丁寧な応対を受けた(お客だから当たり前か)
 ①用途は携帯はメールの送受信が主、ときどき電話受信、写真も小さいサイズでときどき撮る程度 ②スマホは画面が小さいのでタブレットも同時に購入する ③スマホには多くのアプリがあるがほとんど不要だろう。早い内にキャンセルしたい ④スマホを持つことで、ノートパソコンで、何処でもネットをみたい。こうした条件。いろいろ聞くとタブレット代金は別で、スマホ契約でノートPCもタブレットもネットを使うことは可能。それには、やはりキャンペーン割引しても月7千円だという。格安も2年目以降増額になる。いろいろ聞いたが、結局、同時購入と決めた。その契約と機器の受取りが28日午後。なんと3時間弱かかった。一つ一つの説明、それを繰り返す。金融商品と同じ手法。ついでに関連グッズも購入した。右の画像は、昨年2月購入したノートPCに今回のiPadとスマホをおいたもの。0301
 操作習得に苦戦している。契約迄に3時間も要したから先ずはそれまでとし、後の操作覚えはなんとかなるだろうと考えていたのが、実にあまかった。電源ONと初期画面程度は初めに聞いたから分かるが、ひとつひとつのアプリ等はどういうものか?有料無料もわからぬ。同意を求められても確信を持てない。安心遠隔サポート契約をしたから、そこに聞けば何とかなりそうだが・・・、ここであらためて、基本操作くらいはお店でも教えてくれるのではないかと思えた。その担当者は1,2日は勤務外ときいている。早めに時間をとり行ってみることに。

この項、店の応対を含めつづける。年寄りのスマホデビュー談になるだろう。パソコンには詳しくても、もの覚えが衰えている。さてどうなるか。自習するならこんなサイトもあり視聴してみた。

2017年1月21日 (土)

働き方改革、さて

 もう数日前のことになる。文科省政務官から丁寧なお返事を戴いた。車座ふるさとトークの樋口国会議員。170121_2あの日、トークでの発言したことと言い足りない部分の発信を約束し、お知らせしたメールへの返信。こうした応答をなさる方は、実は少ない。それなりの地位にある方ほど無反応なのが普通なこと。これから、働き方の改革、容易ではないがどう進むのか見守っていく。
 彼のプロフールには1971年生まれとある。丁度30歳違いの45歳、働き盛り。この年齢は自分にとっても分岐点だった。ソフトウエア開発部門で漢字処理と情報検索技術を会社の商品に定着させ、異動先のコンピューター運用部門では国内の多くの企業が直面していた運転トラブルの解消をベンチャー企業と組んで運転の自動化ソフトを開発、実現に進めた。第一号ユーザーとして大企業の来社対応や講演に引っ張り出された。国家資格の試験委員や業界の技術委員を委嘱されたのもこの頃。まさに我も働き盛り。

 その日は突然やってきた。夜10時過ぎたまたま一人、在席していたところへ、コンピューターご利用のお客様がやってきて声をかけられた。「あなたは家族サービスをしたことがあるかい?」。「思い出づくりをした方が良いよ」と。この方、現在の情報通信技術開発のパイオニアだった。普段の勤務を見かねたのか?この一言で、異動前の部下の子どもが荒れているという噂、主人を早く帰して下さいと乗り込んできたという新婚の妻の話が脳裏に浮かんだ。どちらも有能なSE(システムエンジニア)で、それなりの報酬を得、若くして自宅も購入したという模範となる社員の家庭のできごと。家庭に時間を割かなかったことに問題はあるにせよ、そのような働く環境になっていることを問題とする気風はなかった。しかし、どういう訳か気がかりになる。本人も望み能力も高まるチャレンジングな仕事は人を夢中にさせる。自己実現はハイテンションになる。ブレーキをかけなくてはならないが、受注を多く抱えているとそうもいかない。それが現実。第三者や客観的に見ればとんでもない環境に見えるのだが、有能な人ほど異常とは気が付いていないもの。事業部長という立場で、働き方の改善を指示したが変化はなかった。翌年度は具体的な業務命令をだす。①プロジェクトのおわりに休暇をとらせること。②夏休み期間を7~9月に設定する。この間に土日を含む9連休をとらせる計画を提出せよ、と。売上げ減少は覚悟。結果は緩やかな変化に過ぎなかったが、働く意識は少しずつ変わり始める。人は好きな仕事で報酬を得ていればやっぱり夢中になる。だからフォローとケアだけは留意するようにした。

 今もなお似たような環境はたくさんあるが、力のある女性が増え緩やかに変化はしているようだ。大手広告会社の新人の自殺をみた今日、企業には幹部自ら改革の具体策を提示しフォロ-し、小まめなチェックを望みたい。労働基準監督署も実の上がる指導をして貰いたい。カンブリア宮殿放映SCSKが実現したというやり方、その研究もするがよい。しわ寄せもあろう。ともかく仕事と家庭、どちらを優先するではなく、家庭あっての仕事と、意識を変革しなくては、働き方改革の実現は難しかろう。スローライフに切り替える努力は、今の生活のあり方そのものを男性/女性、独身/既婚を問わず考え直すことからなのだが、できようか。

2017年1月 1日 (日)

新年のご挨拶

    明けましておめでとうございます
皆様にとって、きっと素敵な一年となりますよう こころから祈念しています
 昨年 後期高齢者の仲間入り 古希から終活に着手しその一環としてお年賀もWEB切り替えというわけ この我が儘 お許しください
学びの共同体 アクティブ・ラーニング これらを融合するがごとき牛久の学びに取り組む全ての牛久の先生を応援します  
(画像はクリックすると拡大します)

17_6 WEB年賀はホームページとこのブログにて ご覧の編集で発信 昨年の年賀状にはそのお知らせもあります 
今年 頂いた方でメールアドレスのわかっている方にはメールにて再度お詫びとお知らせをします

2016年12月30日 (金)

2016年 申 : しめくくり

 明日は、もう大晦日。一年って早い。誕生したその一年は、今や10分の1程度に感じる。成長・青年期は気にしたことはない。還暦を過ぎて、人生をふり返りはじめて、一年のトキ(時間)を気にとめるようになった

 子どもの頃他人(ひと)様に迷惑をかけるな。他人様のお役に立つ人間になれ。手に職をつけよ、と頻繁に言われて、小言に聞こえた・・それも、学生からは教え、今は思い出の母の言葉。教えは、途中一つ加わる。決して保証人になるな!実印を押すときは慎重に。これは、我が家訓で、子どもたちに伝えている。

 1945年:終戦の10月、身重の母は、兄(中1)・兄(小4)・姉(小3)・私(4歳半)(小3姉の背の)(1歳4ヶ月)の5人を守り江景(現韓国)から引揚げてきた。最後の招集で兵になった父はいない。ほかの生活も浮かぶその地から(上下二段区分の)貨車に詰められた人々と一緒に(釜山)港に運ばれた。途中の原ッパでは停車し炊飯した。引揚船(後年、徳寿丸と知る)乗船時の海面の見える狭く揺れ動く桟橋や航行の飛沫、上陸した博多港で初めてみる外国人進駐軍)。寄留先の朝倉郡甘木で末妹誕生。納屋や川も次々思い出される。

 1965年(5市合併→100万都市:北九州市誕生)の上京迄、無法松の一生で知られる小倉に住んだ。松本清張の出身地、今は城内に記念館がある。高杉晋作の長州軍と戦った主力の小笠原藩(譜代)は、この小倉を居城とした。城下町であり大手の工場があり、なんと炭鉱もあった。当時の石炭は重要なエネルギー源。戦時中から食糧事情は良かったらしい。一家8人家族移住の決め手。ほどなくエネルギー政策は変わり石炭産業は斜陽になる。父は母の従兄の会社に移る。母はどう才覚したものか近くの古い家を購入。表を改造し裏手に煉瓦とコンクリの耐火倉庫を造って質屋をはじめた。小3のとき朝鮮戦争(1950年)勃発。近くの城野キャンプの米軍が最初の国連軍として韓国へ。出動直前黒人兵の脱走騒ぎあり。小倉港は物資搬送の基地になる。
落盤事故に争議も頻発しはじめたそんなある日、父は社長になった。事務所に行き社名看板をみた。社員の運転するジープで耶馬溪にもいった。だがその直後、社員は消え、事務所はもぬけの空。詐欺グループによる計画的な犯行。ドッキリではない事実。怖い取り立てがやってきたのは小6の秋だ。負債総額(今に換算すると)1.8億あまり。一挙に窮乏生活になる。絶望し思い詰めた母を激励したのは大学生の長兄、即休学し駐留軍キャンプで働きはじめる。次兄は大学進学を断念し公務員に。姉はアルバイト、自分は新聞配達。保証人どころが、担がれた社長であっても一切の責任は父になる。そんな家族の大事件の思春期に世の中の大人には、悪人のいることを知る。悪徳弁護士もいる。今なおその名は大嫌い。

 退職届を提出しオンライン情報検索システム開発中の10ヶ月間に、6社から誘いを受けた。そこから、あえて大企業ではなく、生保のそれも、できたての子会社に決めた。その理由。新規事業で任せて貰え、制約が少なそう。資金の心配はまったくない

 ふり返りすぎた。いったん止め。このところ牛久の学びやコミュニティ・スクールに関わり、知人が増えた。これからは自分を知ってもらう必要もあろう。まずは、地方での暮らしから知ってもらうことに。4_50_3業務経歴は、ホームページの奥深くにあるが、少年・青年期のことは、どこにも記していない。家族にさえ話していない。されば、この機に孫たちのために残しておくことにする。子どものころから、卒業・上京までの小倉での生活そこで身近に起きた争議・事件、60年安保、三井三池大争議(炭労と日経連の戦い)を見聞きし、脳裏に刻んだ。労使双方のトップの人物の真の姿も、父を通じて知った。我が精神の背骨はその地でその環境でつくられた。いまは出来ることをできるだけに絞ったふるまいだが、さて今後どうなる。少年の頃の写真は卒業式アルバムのほかは、この(小4)一枚しかない。兄姉弟も同様。写真は長兄(高校時代)の友人が、見下ろして覗くタイプのカメラ:リコーフレックスで撮った。セピア色からスキャン、修正なし。

2016年12月27日 (火)

学校語、あらかると

 一般人には馴染みの薄い用語が学校にはある。専門語?業界語の類い。ここでいくつか紹介。
 「板書」。バンショという。授業の中で黒板に書くこと。こんないい方とは知らなかった。昔は、本当にだったが、いつの頃からかになって広く普及。でもコクバン。目に優しいらしい。チョークをつかうがあまり粉が散っているのを見ない。マーカーを使うホワイトボードもあるが案外汚れる。サイズにおいて黒板には遠く及ばない。そして、今や電子黒板。文科省のICT化3指標(無線通信、タブレット)のひとつ。牛久市は県内でブービー。そのかわりかも知れないが、数年前に大型印刷のできるプリンター?が入った。パソコンで作成し、そのプリンターのようにつかう。これは便利。Photo_2授業で先生方は多用している。大きい文字で印刷したマグネット付資料を黒板に貼って使う(繰り返し使用する資料は板書より手早く貼れて綺麗)。低学年の国語の利用に多く見受ける。右図は奥野小1年。教室側面に常設掲示の国語の文章に若干の手を加えた資料。
Photo 「立腰」。リツヨウという。電子辞書で一発変換は無理。新語登録する。腰骨(こしぼね)をいつも立てて曲げないようにすることにより、自己の主体性の確立をはじめとした人間形成を実現する、極めて実践的な方法と、哲学者・教育者である森信三(もりしんぞう)先生が提唱されたされたとある。市内どの学校にも、その椅子は置いてある。ちょっと特殊な形。今回あえて座ってみた。背筋がピンと伸びて気分爽快。授業を受ける姿勢として望ましい姿勢と、うなづけるが学びあうグループ学習のときは、どんなものか。心がけ次第か。神谷小学校には、座り、膝をつけ、足もとの開く角度を示すものもあった。
 「居場所」、イバショという。ウッ!?とつまる。聞き慣れない。学校・教室における子どもの居場所ということ。会社で、認められるているのと同義。認められていれば、その人にとって安心を得る場。居場所。子どもだって同様に居場所は必須。以前は、あの子は、頭が良い/スポーツに優れている/絵がうまいといった目に付きやすい大ざっぱな尺度で人を見た又は見られた。そんな見方は牛久では時代遅れ。学びあう授業を通して、細かく様々な分野で認め合っている。誰もが何かを友達に認められていることで居場所を得ている。授業が理解できないから・面白くないから教室を抜けるということは今はない。荒れにつながらない。市教委の今年の目標には、この居場所づくりと高い学びの保障をあげている。

 「一斉授業」。イッセイジュギョウ。当然読めるが馴染みはなかった。授業改革と呼ばれる学びあう授業の浸透で、対語として使われてきたのではないか?一斉授業は、我々が経験した長い伝統のある学び方。教師は教壇にたち、それこそ姿勢を正させて、もてる知識を単元に沿いイッセイに伝授していく。教え方も先生次第。当然、理解の早い遅いあるいは理解できない内容はそのままになることままあり。でも試験、点数で評価される。団塊世代2世のころからか、荒れる学校が多発した。授業の方法を真剣に見直し、考え、研究し抜き、実践された方がおられた。佐藤学先生。その長く真摯な努力に、教壇に立ち苦悩されていた現場の教師が共鳴して、より授業法を工夫され、いまに続いている。一斉授業とは真逆な授業法だけに反発も。形だけ採り入れた例も。牛久は違う
 ついでに番外編。子どもの言い方分類。幼稚園・保育園は園児。小学校では児童。中学校では生徒。高校も生徒?大学・専門学校では学生。これって役所の分類でしょう?親から見れば、みんな子ども。だから、本記事では”子ども”と”学生”のみになるかも。
 

2016年12月24日 (土)

クリスマス・イブの思い出

  クリスマスカード 「jaxchristmascard5.exe」 ほぼ20年前のこの日、思いがけなく彼からこのカードがメールで届いた。X_9その後、知らぬ間に肺ガンを発症し定年を迎えることもなく去る。カードの作者は不詳。当時としては超珍しいアニメーションに出会った彼が、柄にもなくプレゼントを思いついたのか。ご覧頂きたい。次の手順で。1行目クリスマスカードの右をクリック(ダウンロード)し、画面下の表示から【実行】クリックすると展開し封書が現れる。画面一杯になり、画面を小さくしたかったら Esc 。では、手順。封書のスタンプクリックし、以降 Enter を順に押下。終了はQuit

 彼は、卒業後最初の職場の3年後輩。彼自身がプロデュースし、ある大手企業と共同設立した会社に完全移籍するまで、ずっと一緒だった同志の一人。
 そこは、科学技術文献の速報誌を発行する半官半民の団体だった。国の予算(特別会計)と密接な繋がりがある。 今年のそれ”29年度予算の閣議決定”は早いが、当時は大晦日ぎりぎりまでつづいていた。28日の納会の傍らでは、大蔵省への説明と資料準備と持ち込み待機に明け暮れる予算グループもいて、コンピュータ関連の時は駆り出された。

 世は高度成長に向かいつつある時代。資源のない日本は、世界中に出てくる第一線の技術を知り、学び、研究するべく、文献を集め、企業や研究所や大学に、そのダイジェスト情報を速報誌としてながすのが組織の役割。最新情報を国家として強く求められ、新技術開発に官民挙げて取り組む沸騰の時代でもある。英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語等の論文やプレスリリース等。これらを収集し、電気、物理、化学といった専門分野毎の情報員(大半は修士,博士)が、文献を選別、国内の大学や企業の協力者に翻訳を依頼。戻ってくる初稿は、再び情報員の手で原文と照らされ原稿となる。それを和文タイプライターで一文献毎にカードにし、分類編集し、リストマチックカメラで撮って版下を作り、印刷所に持ち込む。収集から発行まで半年もかかる。速報誌とはいえない。もっと速くと産業界の要請は強かった

 その頃のコンピューターは、英数字・カタカナ文字・一部記号に限られていた。コンピューターで編集し、速く発行せよ、との理事長の号令で、コンピュータによる漢字処理の開発は始まった(1968年)。果敢な挑戦に俄然沸き立つ電子計算機室。残業代のつく/つかないなんて気にしない。日本のためという高揚した使命感。先輩は日本(漢字かな混じり)文を出力できる装置の開発に着手。世に傑出したエンジニアはいるもの。その人たちとの共同開発となって改良を重ねて実用化へと進む。並行して情報員の原稿をもとに、新聞社で使用していた漢字テレタイプライターを使ってテープをつくり、その紙テープをコンピューターに入力、雑誌形式に編集し版下を作ることになる。今に続く文献速報誌のコンピューター編集の実用化に当たったのが我等。現在のパソコンの性能に遠く及ばないころ、一晩で版下を作るのは至難なこと。実は、先任の担当者がいた。が、海外に行くと言い残して消えた。我等はその後任。期日までに実用化レベルに達し、大々的な記者発表となり、NHK夕方のニュースで世に出たのは1970年。いらい漢字を扱える先端のエンジニアとして注目を浴びることに。

 速報誌の文献情報は貴重な情報として蓄積される。それらから求めたい情報を探し出す情報検索へと技術開発(システム開発)はすすむ。彼はオンライン検索(今やyahoo等で当たり前)プログラムの作成で非凡な才を発揮。こうして日本で最初の漢字処理と情報検索技術、二つの先端キィテクノロジーを身につけ、民間でやってみたいと決意し退職を申し出ると、なんと彼も同じ日に提出する。もともとは、国家プロジェクトに準じた開発に携われたことによる幸運。担当理事から”オンライン情報検索のプロトコルを仕上げれば”との条件付で一年後、二人は恩ある組織を卒業(担当理事,送別の言葉)。そして1972年2月、オーナーの傘のもと新規事業を立ち上げる。二人からの組織作り。今で言えば起業に相当するが、このことは、いずれ。

2016年12月20日 (火)

このデザイン変更

 今日は年賀状の準備でした。自分の分と家内の分4種の計5。昨年投函の2016年版年賀状には「誠に勝手ながら来年からはホームページ上でのご挨拶に」とお断りしました。ハガキ印刷ではないものの同様につくる。この一年を振り返りメッセージに、イラストは申から酉へ。このSNSとホームページの大晦日にアップします。SNSも。
 問題は、昨年知らせた賀状のURLから、この春サイトを移転したこと。というわけで、この際、発信はじめから利用した基本デザインを変更し、本文表示部を増やすイメージチェンジ。Web賀状にするよ、という予告でもあります。印刷をやめるのは終活のひとつ。そのときは、役目を終えた忍者のように消えるつもりなので。家族に手間は残したくない。
我ながらまったく勝手ですな。みなさま悪しからず。所詮そういうわたしです。このように発信しておけば、デザイン変更の日の記録にもなる。なんとムシの良い。
URL HP「奥野の郷」は http://u-okuno.my.coocan.jp/ ブログは http://okuno-no-sato.cocolog-nifty.com/blog/
ブラウザー検索では「奥野の郷」で十分出現。「牛久市」を加えればさらによい。
 新年に賀状を頂いた方には、メールアドレスがわかれば個別にメールを送ります。わからなければ諦めます。ご免なさい。

2016年11月27日 (日)

視聴覚教育功労者

 平成28年度「視聴覚教育功労者」に選ばれた。このこと、広報うしく11月1日(1180)号27ページに載り、その後、多方面からお祝いの言葉を頂戴し恐縮している。指導課T氏から個人情報を含むが推薦してよいかと5月に打診され、どういうものかトンと分からないままに気軽に了解。8月に内定の連絡、そして二月前の9月27日、牛久市庁舎にて、県の担当者の持参した二品を染谷教育長から頂戴した。Photo賞状はB3サイズ、後に届いた額にいれるとずいぶんと立派で、おそらく我が生涯で一番のおおものとなろう。副賞の銅メダルも、リオ・オリンピックと重なって記念になる。全国で33名の受賞。2一般財団法人日本視聴覚教育協会の中央功労者一覧を見ると、昭和30年生まれ前後の教育関係者ばかり。情報産業勃興期・発展期にプログラマーからシステムエンジニア、そしてIT企業経営の道を踏んだという経歴の後期高齢者は一人。異例なことで驚き。
 そもそもは、平成13年任期半ばで辞職。身についた情報関係の知識とスキルを学校教育の場に提供したいと翌平成14年、ボランティアを希望しその機会を頂いた。総合的な学習の時間の多かったころは週二日授業に当たる。その頃の小学校6年生は今や27歳、社会で活躍している。学校ホームページのサポートは翌平成15年、先生の作業負担を見かねて着手した奥野小から二小へ。その後市内全校に拡がる。これら一連のボランティア活動履歴はこちら
新設のひたち野うしく小学校では、J-KIDS大賞 :全日本小学校ホームページ大賞:通称小学校ホームページの甲子園(10年間で活動終了):の最終活動年度の平成24年、20,741から全国ベスト8 に選ばれ、東京新宿高層ビルでの表彰式に出向いた。教職員に無理をさせないレベルでの情報発信ルールを独自に定めたものだけに、その発信基準が全国レベルで認められたことが喜びに(このこと本ブログ1号記事に)
 現在、市教委の情報教育サポーターとして、ホームページのレビュー:全13校、巡回サポートは要請のあった13校を定期訪問するほか、相談を受ければ出向く。パソコン授業は毎年つづく奥野小、スポットは昨年から神谷小(一日)。面白い「牛久の学び」は、公開授業とそれに続く校内研究会に参加し理解を深め、子どもに向き合っている先生の助けをと考える。奥野小学校、二度目の学校評議員。コミュニティ・スクール推進委員。小規模特認校(奥野小と二中)カッパ塾(放課後、土曜、日曜)に顔をだし、おくのキャンパスを本ブログとHP「奥野の郷」をもって広報する。活動の目的は、奥野地区、また市内の子どもたちを、できることをできるだけの気概で応援すること。ご一緒に活動してみませんか。お声をおかけ下さい。